沖縄戦の戦跡をフルスクリーン360度パノラマで紹介しています。
沖縄戦跡バーチャルツアー
Landscape and Memorials of The Battle of Okinawa
沖縄本島は南北約135km、一番広いところで幅28kmの細長い島です。この島で日本国内で唯一住民を巻き込んだ地上戦が行われ、20万人余りの尊い命が失われました。

沖縄戦跡バーチャルツアー」は、失われつつある沖縄戦の傷跡をフルスクリーン360度パノラマでアーカイブし、オンライン平和学習、現地訪問の事前学習資料として活用されることを目的としています。

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沖縄戦の前哨戦 1944年10月10日(沖縄空襲) -
米軍はサイパン島、硫黄島に続く日本本土攻撃の第三の出撃基地として沖縄の飛行場を利用し、極東における日本との太平洋戦争に勝利するため、沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)を計画しました。その前哨戦及びレイテ(フィリピン)沖海戦における沖縄からの航空支援を断つため、1944年10月10日午前6時半から午後3時半頃にかけて、米軍機動部隊の空母艦載機により北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納)、那覇飛行場、港湾施設、都市等、沖縄本島全域及び大東島、石垣島等の島々を第1次、第2次、第3次、第4次、第5次と爆撃しました。特に、那覇市はこの空襲により焦土と化し、家屋の90%が全焼全壊しました。
■沖縄戦前哨戦の経過
1944年
3月22日 南西諸島に第32軍(沖縄守備隊)創設
4月10日 沖縄方面根拠地隊(海軍)創設
8月22日 学童疎開船対馬丸、米潜水艦ボーフィン号の魚雷3発を受け、悪石島付近で撃沈。乗客約1700名の内1500人が死亡
10月10日 米軍機動部隊艦載機、沖縄各地に空襲
10月21日 米統合参謀本部、沖縄攻略作戦計画(アイスバーグ作戦)を決定
10月24日、25日 日本海軍、レイテ(フィリピン)沖海戦で破れ、事実上壊滅
12月5日 第32軍最精鋭の第九師団(武部隊)、台湾へ移動
1945年
3月23日 米上陸部隊、沖縄諸島に空襲を開始
3月24日 米軍、沖縄諸島に艦砲射撃を開始
3月26日 米軍、慶良間諸島に上陸
3月31日 米軍、慶良間諸島占領

米軍上陸 1945年4月1日(米軍上陸) -
米軍上陸地点は、沖縄本島中部西側の波平から北谷までの10km余りの珊瑚礁と砂浜で囲まれた海岸です。海岸より内陸は平坦な耕作地と海岸平野で、上陸部隊を攻撃する水際作戦が有利とは言えない地形です。比謝川を境に北側に海兵隊、南側に陸軍が上陸しました。

4月1日早朝、米軍は艦砲射撃を開始し、上陸地点の海岸線付近に11万発余りの砲弾、艦載機による北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納)等への空爆を行いました。また、米軍は約1,500隻の軍艦、548,000人の戦闘部隊、補給部隊を動員して沖縄戦を展開しました。一方、最精鋭の第九師団(武部隊)を台湾に抽出された第32軍は当初の水際作戦を戦略持久に変更し、北、中飛行場を放棄し、司令部の置かれた首里を囲むように沖縄中南部に軍主力を配置(約100,000人)していました。そのため、第32軍による米軍上陸部隊への攻撃は、この地域の防衛にあたっていた特設第一連隊による夜間斬り込み、対戦車肉弾攻撃のみで、ほぼ無血上陸であったと言われています。また、米軍はこの日の内に、60,000人以上の兵が上陸し、多くの軍事物資が陸揚げされ、北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納)を占拠しました。

このとき、読谷村内に残った住民は自宅壕、近くの壕に避難していました。爆撃、艦砲射撃、避難壕への攻撃、自決、集団自決により、4月1日の米軍上陸から3日間で、267名の村民が犠牲になりました。

現在、比謝川河口付近は泊城公園として整備され、米軍上陸の地碑が建てられています。

■米軍上陸の経過
4月1日 米軍、読谷、嘉手納、北谷の海岸に上陸。その日の内に、北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納)を占拠
4月3日 読谷村のチビチリガマで「集団自決(集団死)」発生。85名が自決
4月5日 本島中部の東海岸の石川を占拠し、本島を南北に分断
4月7日 戦艦大和、沖縄へ向かう途中の鹿児島県坊津沖で撃沈
■米軍上陸の地付近の戦跡
米軍上陸の地碑 沖縄県中頭郡読谷村字渡具知238
楚辺吉川原海岸のトーチカ 沖縄県中頭郡読谷村字楚辺1909
高射砲陣地跡 沖縄県中頭郡読谷村字座喜味708-4
旧日本軍の北飛行場格納庫跡 沖縄県中頭郡読谷村字座喜味2958
旧日本軍の北飛行場跡 沖縄県中頭郡読谷村字喜名
旧日本軍の北飛行場誘導路跡 沖縄県中頭郡読谷村字座喜味
瀬名波ガー周辺の洞窟群 沖縄県中頭郡読谷村字瀬名波815

中部戦線 1945年4月8日(嘉数高地の戦闘) -
米軍上陸地点の比謝川河口から南方向約10kmの沖縄本島西側、現在の嘉手納航空基地、普天間飛行場付近は比較的なだらかな平地が続きます。それ以南は沖縄本島を東西に流れる河川、東西に連なる丘陵が第32軍の司令部があった首里城を取り囲むように続き、防衛に有利な地形となっています。

米軍は上陸地点から宜野湾手前までは比較的容易に作戦を展開しました。迎え撃つ日本の第32軍は宇治泊、嘉数、我如古、西原、棚原、南上原、伊集の高地にトーチカ、塹壕等を構築し、首里防衛ラインの主陣地を構えていました。また、首里防衛ラインの第2線陣地として、城間、前田、幸地、小波津の高地にも陣地を構えていました。

4月8日、米軍は首里防衛ラインの日本軍主陣地に対して北方から攻撃を開始しました。4月9日早朝、米軍は嘉数高地に奇襲攻撃を開始しました。しかし、嘉数高地北側には嘉数渓谷があり、嘉数高地北面の崖により戦車機動も不可能、日本軍主陣地のトーチカからの機関銃射撃、砲迫弾による激しい砲火により一歩も前進することができませんでした。嘉数高地での戦闘はその後も一進一退を続け、4月23日、日本軍が前田高地等の首里防衛ラインの第2線陣地に後退し、4月24日、米軍により占拠されました。

さらに、城間、前田、幸地、小波津での戦闘、安里52高地(シュガーローフ)、運玉森での激しい戦闘を経て、5月31日、米軍は首里城の地下に構築された第32軍司令部を占拠しました。

米国第10軍の主力部隊と日本の第32軍主力部隊との戦闘により、米軍の死傷者26,000人、第32軍約100,000人の内64,000人がこの中部戦線で戦死しました。また、激戦の地となった、嘉数(54%)、前田(59%)、西原(47%)等では、待機者が根こそぎ動員され、住民のおよそ半数が犠牲となりました。

現在、嘉数高地は嘉数高台公園として整備され、普天間基地を見下ろす北側斜面には、当時のトーチカ等が残っています。

■中部戦線の経過
4月8日 嘉数高地で戦闘開始
4月16日 米軍第306連隊、伊江島上陸
4月21日 米軍、伊江島占領
4月24日 嘉数高地陥落
4月26日 前田高地戦闘開始
5月3日 第32軍司令官牛島中将、日本軍の攻勢を指示
5月6日 前田高地陥落
5月12日 シュガーローフ(那覇市安里の小高い丘)での戦闘開始
5月18日 シュガーローフ陥落
5月22日 第32軍司令部、南部撤退を決定
5月25日 ひめゆり学徒がいた南風原陸軍病院に南部撤退命令
5月27日 第32軍司令部、南部の魔文仁に撤退
5月31日 米軍、首里の第32軍司令部を占拠
■中部戦線の戦跡
嘉数高台公園のトーチカ 沖縄県宜野湾市嘉数1-5
嘉数高台公園の展望台 沖縄県宜野湾市嘉数1-5
首里第32軍司令部壕跡 沖縄県那覇市首里当蔵町3
首里第32軍司令部のトーチカ 沖縄県那覇市首里真和志町1
首里第32軍合同無線通信所跡 沖縄県那覇市首里当蔵町3
円鑑池 沖縄県那覇市首里当蔵町3
伊江島城山山頂 沖縄県国頭郡伊江村字東江上214
ニィヤティアガマ 沖縄県国頭郡伊江村字川平1355

南部戦線 1945年5月27日(首里司令部撤退) -
沖縄本島南部は隆起した珊瑚礁から構成され、玉城村の全長5kmの玉泉洞をはじめ、小さいものを数えると1,000箇所とも言われる多数の自然壕(ガマ)があります。真栄里、国吉、与座岳、八重瀬岳と小高い丘陵が東西に連なり、このラインより南側には遮るものがなく、海岸の断崖絶壁までなだらかなさとうきび畑が広がります。

5月22日、第32軍司令部で会議がもたれ、降伏若しくは首里での玉砕ではなく、司令部を魔文仁に移し、残存兵30,000人とともに沖縄戦を続けることが決まりました。しかし、南部の喜屋武半島一帯には、既に多数の住民が避難していました。東西10kmの地域に中部戦線の残存兵30,000人、中部戦線から軍とともに避難してきた住民と南部地域の住民100,000人が混在していました。

米軍はこの地域で海から艦砲射撃、空から空爆と機銃掃射、戦車を先頭に火炎放射器による攻撃、ガソリンを流し込む等の壕への馬乗り攻撃による戦闘を行います。6月15日から6月18日にかけて真栄里、国吉、与座岳、八重瀬岳の防衛ラインを米軍に突破されると、第32軍による持久戦は益々不利な状況となりました。

6月23日に第32軍司令官牛島中将が自決し、日本軍の組織的戦闘は終了しましたが、自決前に最後まで戦うように命令していたため、8月末まで戦闘を続けた部隊もあったそうです。

米軍による激しい掃討作戦の中、避難壕からの住民追い出し、餓死、馬乗り攻撃、投降しようとする住民等に対するスパイ容疑での斬り殺し、南風原十字路(兼城十字路)、三叉路、井戸等、人々の集まるところを重点的に狙った艦砲射撃、集団自決、肉親に手をかける自決等により多くの人々が亡くなりました。最後に追い詰められた魔文仁、喜屋武岬の断崖絶壁や海岸でも人々が彷徨い、その多くが行方不明となりました。

現在、第三外科壕のあった場所にはひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館が建てられています。また、魔文仁の丘周辺は平和祈念公園として整備され、平和の礎には沖縄戦等で亡くなった米兵、日本兵、沖縄県民、合わせて23万人余りの名前が刻名されています。中には、一家全滅等により名前のわからなくなった人の姓と続柄のみ刻まれているものもあります。また、魔文仁の崖の中腹には、第32軍司令部壕沖縄師範健児の壕等が残っています。さらに、沖縄本島の各地では遺骨の収骨作業の完了していない壕が今でも残っているそうです。

■南部戦線の経過
6月2日 小禄の海軍司令部周辺で戦闘開始
6月4日 白梅学徒がいた八重瀬岳野戦病院解散
6月11日 小禄の海軍部隊(沖縄方面根拠地隊)玉砕
6月13日 大田司令官、参謀が海軍司令部壕内で自決
6月15日 八重瀬岳陥落
6月16日 与座岳陥落
6月17日 国吉方面丘陵陥落
第32軍司令官牛島中将、米軍の降伏勧告を拒否
6月18日 米軍第10軍司令官バックナー中将、糸満市真栄里で日本軍の砲撃により戦死
6月19日 第32軍司令官牛島中将、指揮を打ち切り、沖縄における日本軍の組織的抵抗がほぼ終わる
第三外科壕に米軍によりガス弾が投げ込まれ、教師、ひめゆり学徒多数が死亡
6月22日 国吉の自然壕で米軍の馬乗り攻撃、火炎放射器による攻撃を受け、白梅学徒、手榴弾により自決
6月23日 第32軍司令官牛島中将、長参謀長、魔文仁の第32軍司令部壕で自決
6月24日 米軍、掃討戦を開始
7月2日 米軍、沖縄作戦の終了を宣言
8月15日 日本国政府、連合軍に無条件降伏
9月7日 第32軍の残存部隊が嘉手納で米軍第10軍の降伏文書に調印
■南部戦線の戦跡
旧海軍司令部壕(幕僚室) 沖縄県豊見城市豊見城236
旧海軍司令部壕(作戦室) 沖縄県豊見城市豊見城236
旧海軍司令部壕(暗号室) 沖縄県豊見城市豊見城236
旧海軍司令部壕(通路) 沖縄県豊見城市豊見城236
旧海軍司令部壕(通路) 沖縄県豊見城市豊見城236
旧海軍司令部壕公園の展望台 沖縄県豊見城市豊見城236
平川壕で発掘されたカノン砲 沖縄県島尻郡大里村字仲間1124-1
八重瀬壕 沖縄県島尻郡東風平町富盛
富盛の石獅子 沖縄県島尻郡東風平町富盛
独立高射砲第27大隊戦没者名碑 沖縄県島尻郡具志頭村仲座1073
轟の壕 沖縄県糸満市字伊敷56
糸州の自然壕(ウッカーガマ) 沖縄県糸満市字糸洲
第一外科壕 沖縄県糸満市字米須
第三外科壕(ひめゆりの塔) 沖縄県糸満市字伊原671-1
旧日本軍酸素魚雷と米軍戦車のキャタピラ 沖縄県糸満市字魔文仁448-2
魔文仁海岸と慶座絶壁 沖縄県糸満市字魔文仁448-2
沖縄師範健児の壕 沖縄県糸満市字魔文仁511
魔文仁第32軍司令部壕 沖縄県糸満市字魔文仁511
魔文仁崖下の金井戸川の泉 沖縄県糸満市字魔文仁85
魔文仁海岸 沖縄県糸満市字魔文仁85
平和の礎 沖縄県糸満市字魔文仁448-2
平和の礎(米軍戦没者の名) 沖縄県糸満市字魔文仁448-2

沖縄戦の戦没者数
日本兵(除く沖縄出身の日本兵) 65,908名
日本兵(沖縄出身) 28,228名
沖縄県民(除く沖縄出身の日本兵) 94,000名
小計 188,136名
米兵 12,520名
合計 200,656名
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なお、海岸部の戦跡には干潮時のみ近づくことが可能な場所も含まれています。満潮、干潮等を調べ、くれぐれも安全にご注意願います。また、草むらではハブなどに注意してください。
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